和風インテリア

和風インテリア

和風様式の家具のことを「和家具」といいます。

和家具が西洋家具と大きく異なる点は、椅子や寝台を使って生活する西洋の椅子座に対して、日本は畳の上に座布団や布団を敷くなど直接床の上を生活面とする床座であるというところです。このため当然、椅子や寝台などの脚物家具が発達していないし、また戸棚や箪笥などにも脚付きや台付きが少ないです。

和家具という言葉は、近代になり、西洋家具が入ってきて、従来使われてきた日本の伝統的な家具と区別する必要が生じてから用いられるようになったもので、明治以後に西洋家具が入るまで、家具全体をさす言葉はありませんでした。

和家具の種類

箪笥(たんす)、桐箪笥、茶箪笥、文机(ふづくえ)、座卓、鏡台、幌(とばり)、暖簾(のれん)、簾(すだれ)、障子、屏風、衝立(ついたて)、蚊帳(かや)、畳、絨毯(じゅうたん)、座布団・座蒲団(ざぶとん)、座椅子(いす)、棚、戸棚、卓袱台(ちゃぶだい)、炬燵(こたつ)、火鉢などなど。

和風観葉植物

シュロチク
トクサ
ラセンイ
ザミア・プミラ
セラギネラ
シノブ
オリヅルラン
ガジュマル
リュウビンタイ
観音竹
トックリラン
カエデ(モミジ)

歴史

日本では、明治・大正時代に西洋家具が輸入・生産されるまで「家具」という概念自体、あまり馴染みのないものでした。

それでも、弥生時代に椅子が登場したのをはじめとし、平安後期、寝殿造りという住宅様式が確立してからは、仏具の一種である厨子が置かれ、部屋を使い分けるために御簾、帳台、屏風などの日本独自の調度品が生まれました。

箪笥が登場するのは江戸時代になってから。それまでは葛篭(つづら)、行李(こうり)、櫃(ひつ)、長持など箱型の収納家具が用いられていましたが、生活が豊かになり、着物や小物が増えた頃から収納のための家具が必要になり、出し入れのしやすい箪笥へと発展したのです。ただし、それが庶民にまで普及するのは江戸時代後期になってからです。

明治以降、封建的諸制度から開放されると商工業が活発になり、和家具も量産されるようになります。加工技術も向上し、現在に至る製造方法や塗装技術、装飾技術などが確立していきました。また、この時代、西洋文化が急激に流入したことから、西洋家具も多く取り入れられることになりました。こうして、全国各地に家具産地が誕生し、個性豊かな家具が生産されるようになります。

指物(さしもの)とは?
釘を使わず、板や棒に穴をあけたり切込みを入れたりして組み立てた箱や箪笥。「指し合わせる」技術のこと。

日本の家具産地

家具の多くは木製であるため、代表的な家具産地のほとんどは木材の産地でもあります。

旭川家具(北海道旭川市)
北海道開拓を目的として、明治時代中期に本州より多くの大工や家具職人が旧旭川村に入植したのが始まり。良質で豊富な森林資源を背景に、戦後に木材の機械乾燥が普及して材料の品質が安定したのを契機に、日本を代表する家具産地へと発展した。デザイン性を重視した高級家具産地として有名。1990年から3年ごとに開催しているIFDA「国際家具デザインフェア旭川」には世界中から作品が集まります。

静岡家具(静岡県)
徳川家光が静岡浅間神社を造営した際に、全国各地から集められた職人が駿河に定住。気候に適した漆器作りが盛んになり、その技術が生かされて鏡台作りの産地として有名になります。茶箪笥の産地としても古くから知られており、桐の和箪笥の産地でもある。現在は唐木仏壇の産地としても知られています。

飛騨家具(岐阜県高山市)
家具作りの歴史は江戸時代、春慶塗の飛騨箪笥などに始まり、大正時代には豊富なブナ材の有効活用を目指し、曲げわっぱの技法を用いた曲げ木加工で椅子を製造したのが始まりで、独特の技法を生かした椅子やテーブル、机などの脚を持った家具を得意としている。

府中家具(広島県府中市)
江戸時代の元禄末期、内山円三という人物が大阪で箪笥の製造技術を習得し、故郷に戻って制作を始めたのが最初だと言われています。品質のよさと確かな技術は弟子や子孫に受け継がれ、やがて高級家具の産地として全国的にも認知されます。昭和30年頃には他に先駆けて婚礼家具セットを開発。販売面での工夫も知られている。現在も収納家具の産地として名声を得ています。

徳島家具(徳島県徳島市)
明治4年廃藩置県によって禄を失った阿波藩の船大工が、それまで内職で培ってきた技術を生かして木工業に転向します。特に、桐箱を作り始めたことから、やがて鏡台作りへと発展。明治中期に鏡台が関西地区で好評を博するようになり、阿波鏡台の名で全国的に知られるようになっていった。また、昭和10年代には仏壇の製造も本格化しています。現在は、高級唐木仏壇の産地としても知られている。

大川家具(福岡県大川市)
古くを辿れば、室町時代、大川の中心地である榎津(えのきづ)に移り住んだ榎津久米之介が、船大工の技術を生かして指物を始めたのが大川家具の元祖とされる「榎津指物」です。やがて江戸時代後期、中興の祖、田ノ上嘉作は、文化9年(1812年)榎津長町に生まれ、久留米の細工人に弟子入りし箱物の製作を修得して帰郷。それまでの榎津指物に改良を加え、高い評価を得ました。これが「榎津箱物」のはじまりと言われています。田ノ上嘉作の死後、孫にあたる田ノ上初太郎が家業を継ぎ16歳で田ノ上嘉作を名乗りました。以後、田ノ上一門は長崎で唐木細工やオランダ家具などからさまざまな技術を学び、大川家具の礎を築きます。現在はイタリアの家具の街、ポルディーネ市と姉妹都市を締結。デザイン・品質に優れた家具作りを目指しています。生産高では日本一を誇ります。

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